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「橋」シリーズ
「人物」シリーズ





















大阪再発見「橋」シリーズ

浪華は八百八橋。
大阪が「橋の町」と言われるのは、町人の心意気。
江戸時代、幕府が架けたのが「公儀橋」、
町人たちが生活や商売の必要から架けたのが「町橋」。
大阪の公儀橋は高麗橋などわずかに十二でほとんどが町橋。
八百八橋は、世間が大阪人の活力を認めた誇称だ。

毎日新聞大阪府内版紙面で2002年5月からシリーズ掲載されています。

 

 

天保山大橋は1988(昭和63)年、阪神高速道路が安治川をまたぐために架けられた橋である。堺と神戸を結ぶ高速湾岸線を利用する車の往来がとぎれないこの橋は、大型船が航行するための十分な航路幅とマスト高を確保するため、主塔から斜めに張った多数のケーブルで橋桁を吊る「斜張橋」という形式ででつくられている。
天保山界隈は現在、海遊館やハーバービレッジ、対岸はユニバーサル・スタジオ・ジャパンで賑わうが、もともと造船所や埠頭があり重要な航路のため、橋を架けることができず、「渡し」が対岸を結ぶ交通路になっていた。天保山大橋が架けられた今も、天保山渡船場は残されており、市民の貴重な足となっている。
全長640b、大阪港観光船サンタマリア号の船上からや天保山公園からの眺めがビューポイントの天保山大橋は、白鳥が優雅に翼を広げた姿にたとえられる大阪の新しいシンボルのひとつであるとともに、未来へ架ける橋でもある。    
文/浅永忠和

 

 

川崎橋の地は江戸時代、大阪城京橋口から京街道や大和街道に通じる交通の要衝であり、また城代や町奉行所の役人宅、宅、藤堂藩などの蔵屋敷が建ち並んでいたため、渡川の必要があり、元禄年間には「川崎渡し」が記録されている。
川崎橋は1877(明治10)年、大川に架けられた町橋で、153bという長大な木橋であった。ひとり三厘の通行料を徴収したため、「銭とり橋」と呼ばれた。
しかし、1885(明治 18)年の大洪水で流失、以後永く再建されることはなかった。
現在の川崎橋は、中之島から千里の万博記念公園を結ぶ大規模自転車道の一環として、1978(昭和53)年に架設、細いケーブルが美しい長さ129.15b幅3bの斜張橋である。
毛馬桜宮公園と大阪城公園を散策する人々が渡る車の通らないこの橋は、「憩い大阪」のシンボルのひとつであり、夜はライトアップされて美しい姿を大川(旧淀川)に映している。
文/浅永忠和 

 

 

大江橋は元禄年間、堂島開発に伴って新しく架けられた大坂元禄五橋(大江橋、渡辺橋、田蓑橋、堀江橋、船津橋)のひとつで、五橋にはそれぞれ歌枕などからその名前が付けられた。大江橋は「玉藻刈る大江の浦の浦風につつじの花は散りぬべらなり(大伴家持)」から名付けられた。江戸時代、大江橋の北詰には堂島米市場があり、日本の米の価格はこの市場で決められており、大江橋もそのため賑わいを極めた。橋は1935(昭和10)年、御堂筋建設によって生まれ変わり現在に至っている。

水晶橋は1929(昭和4)年、河川の浄化を目的とした堂島川可動堰、つまりゲートとして完成した。その後、橋面の改装が行われ、市民に利用されるように現在の橋となった。
堂島川に架かるふたつの橋の南詰めは日銀、市庁舎、中之島図書館、公会堂。大阪の中心地にある橋は市の歴史を語り未来を見つめる。温故知新を思う大阪のシンボルのひとつである。
文/浅永忠和




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