>>topへスタンス e-フォーラム 情報・Click 大阪再発見 会社概要


「橋」シリーズ
「人物」シリーズ




















大阪再発見「人物」シリーズ

 

 

大阪が生んだ庶民の英雄。
型破りな棋風で、打倒東京の旗頭。


【坂田三吉】

江戸の昔から東京中心だった棋界へ、
独学の将棋とハングリー精神で挑戦。

坂田三吉は明治三年、今の堺市協和町に生まれた。学校の勉強は嫌いで将棋に熱中、自分の名前も書けず、将棋の駒の字と数字しか読めなかったといわれる。
二十二歳の時、大阪で関根金次郎四段とさして破れた坂田は、以後、打倒関根に執念を燃やす。四十三歳にして、八段となった関根に平手でさして初めて勝った坂田は、二年後の大正四年に八段を認定され、実力は日本一とウワサされるのである。そして、時期名人位を狙うのだが、野望は果たせず、関根が十三世名人継承する。その後、坂田は、まわりからもいわれて、「関西名人」を宣言したために、連盟から除名されてしまうのである。
こうした栄光と転落の落差、今一歩のところで惜しくも敗れてしまうあたりが、庶民の英雄、大阪の英雄にふさわしく、伝説化されていく由縁といえるだろう。

服部霊園のお墓には、
将棋駒の墓石。
また、名人位、王将位も贈られる。

坂田三吉は、昭和二十一年に亡くなり、そのお墓は、豊中市の服部霊園にあるが、墓石は将棋の駒がかたどってある。
これは、昭和三十一年に日本将棋連盟が建てたもの連盟は、その前年に名人位と王将位も追贈している。
また、よく知られているところでは、通天閣の下に、顕彰碑が立てられている。
しかし、坂田三吉をこれほどまでに有名にしたのは、北条秀司の戯曲「王将」であり、村田英雄が唄った演歌の代表作「王将」であることは、衆目の一致するところだろう。
いかにも破天荒に生き、また文盲であった坂田三吉だが、耳学問で一見識を持ち、口述筆記で当時の新聞に「将棋哲学」を連載。著者として「将棋虎之巻」などを残している。一芸に秀でればの例えを地でいった人物。勝負の世界でさえ、管理、管理が横行する現在。やっぱり、魅力いっぱいの英雄だったと思いたい。


 


「こんなオモロイ奴、みたことない。」
まいど、世間をさわがせたスーパースター。


【初代 桂 春団治】

もって生まれた強い星。落語ニューウェーブは、人気街道まっしぐら。

「いよっ!色男」「後家殺し」。これは、芸人への最大級のほめ言葉である。初代桂 春団治は、道修町の医療問屋の未亡人をめとったわけだから、まさに「後家殺し」を地でいった芸人といえる。
 生まれは、明治十一年。五黄の寅である。俗にいう、強運の星のもとに生れ落ちた。その芸風は、一時が万事、派手好みの型やぶり。どんなことをしてでも客を笑わせるのが芸人、と心得る。
「スカタン」「ヤタケタ(弥猛た)」という言葉に代表されるように、その性格は、きわめて自由奔放。
 とにかく、やることすべて世間の注目を集め、桂 春団治は、大阪の演芸界を、鳴り物入りで駆けぬけていった。芝居に、映画に、歌に、小説に、その生きざまが描かれるように、まさに伝説的な人物である。

無茶苦茶しても、ちょっとも憎めへん。
大阪人のエスプリを生きた代表選手。

 こんな男だから、奇行を数えあげればキリがない。寒い最中に道頓堀川へ飛び込んでみたり、すっ裸で地方興行の呼び込みをしたり、警察のお世話になったことも度々。
 高座においても、客をびっくりさせるのが好きで、「ごめんやす、今夜はここから出さしてもらいまっせ」といきなり客席から高座へ上がり、拍手喝采を浴びたこともあったとか。かと思えば、ひいきに呼ばれたお茶屋でのこと。下手な踊りで祝儀ももらえない貧しい姉妹に代わって、春団治は「奴さん」を踊り、山のように集まった祝儀を姉妹に持たせてやったという、泣かせる一面もあった。
 うなぎの半助(頭)が大好物だったというのも、なんとなく親しみのわく話である。ちなみに、この春団治は厳密には二代目であるが、一躍有名になったため、初代として通っていることをつけ加えておく。現代活躍中の、あの男前の春団治は、三代目である。


 

 

その名も、乞食七兵衛さん。
「そこまでやれば、もうかりまんなあ」


【和泉屋七兵衛】

ぞうりを履くのも、もったいない。
冬の朝でも、
はだしで通した筋金入り。

和泉屋七兵衛は、もとは堂島の住人。とにかく、そのケチぶりは有名で、家の中にケチ始末大明神をまつっていると、噂されていたとか。身を切るような寒い冬の朝でも、年中はだしのままで朝早くから、夜遅くまで良く働いたという。
 とくに、誰でも手にすることさえケガラワシイ他人のフンドシをもらい集めて、洗い、乾かし、フトンを作り、それを売り出してもうけたというから、タイヘンな人物ではある。そして、ついに当時の大阪屈指の長者となったといわれているが、うなずける話だ。

現在の端建蔵橋は、「はだし蔵」がなまってつけられたという。

この七兵衛が、中之島の西端、三方を川にのぞむ突端(現在の北区中之島七丁目)に、土蔵づくりの家を建てたのが、享保年間のことであった。
 だれいうとなく、七兵衛さんのことを、「乞食和七兵衛」と仇名し、うんともうけた金で建てた蔵を、「はだし蔵」とはやしたてたのも、また、うなずける話ではある。
 今も、中之島から川口にかかっている端建蔵(はたてくら)橋の名は、「はだし蔵」にちなんでつけられた名とも、文字通り、中之島の端に建てられた蔵のあった場所だからとも、いわれている。
 蛇足ですが、今日でも大阪で生きている、「汚くもうけて、きれいに使え」という言葉は、和泉屋七兵衛のフンドシからきたのではないことを付け加えておきます。





>>topへスタンス e-フォーラム 情報・Click 大阪再発見 会社概要
Copyright(C)2002 Daimai Co,.Ltd.All Rights Reserved